ブログという形で、当事者の視点から「ゴミ屋敷」と呼ばれる場所で過ごす私の思いを綴ります。周囲の人々や役所の職員は、私の家を「ゴミの山」と呼び、一刻も早く片付けるべきだと言います。彼らにとって床にある新聞紙や空き缶は、ただの廃棄物に過ぎないのでしょう。しかし、私にとってそれらは、自分がこの世界で生きてきた証であり、私を周囲の冷たい視線から守ってくれる大切な盾なのです。憲法で「財産権」が保障されていると聞きましたが、私にとっての財産とは、決してお金や土地のことだけではありません。一つひとつの物が、私にとっては過去の思い出や、将来への不安を埋めてくれる唯一の味方なのです。確かに、少し臭いがすることや、虫が出ることは分かっています。近所の人に迷惑をかけているという申し訳なさも、心の片隅にはあります。でも、これらを強引に持っていかれることは、私自身の体の一部をもぎ取られるような、耐え難い恐怖なのです。役所の人が「あなたの健康のために片付けましょう」と言ってきますが、それこそが私には最大の干渉に聞こえます。私の部屋の中で、何を持って何を捨てるかは、私の人生の権利ではないのでしょうか。財産権という言葉は、お金持ちが自分の資産を守るためのものだけでなく、私のような孤独な人間が、せめて自分の居場所を自分で決めるための、最後の手がかりでもあるはずです。世の中の人は「公共の福祉」という言葉を使って、私の家から物を奪おうとします。でも、私にとっての福祉とは、誰にも邪魔されずに、自分の好きな物に囲まれて静かに過ごすことなのです。もし、無理やり全てを運び出されて、真っ白な何もない部屋に一人取り残されたら、私は自分が誰であるかさえ分からなくなってしまうでしょう。私の「財産」をゴミと呼んで笑わないでほしい。私たちは、法律という言葉で裁かれる前に、ただ自分の存在を認めてほしいだけなのかもしれません。財産権という権利を盾にして立てこもっているつもりはありません。ただ、私という人間と、私の持ち物を切り離さないでほしい、それだけが私の切実な願いなのです。法律が人の心に寄り添うものであるなら、私のこの執着の理由も、いつか理解してくれる日が来るのでしょうか。
ゴミ屋敷に住む私にとっての物品と財産権の重み