ゴミ屋敷問題の本質を掘り下げていくと、そこには住人の「だらしなさ」ではなく、自分自身の健康や安全、そして社会的な尊厳を顧みなくなる「セルフネグレクト(自己放任)」という深刻な事態が横たわっています。この状態にある人々の「財産権」をどう扱うかは、福祉と法律が交差する最も難しい領域の一つです。セルフネグレクトに陥った住人は、自分の生命を維持するための最低限の行為すら放棄しており、その結果としてゴミが溜まっていきます。このとき、本人が「ゴミを捨てたくない」と主張することは、本当に本人の「自由な意思」に基づいた権利の行使と言えるのでしょうか。精神医学の視点からは、認知症やうつ病、あるいは強迫的貯蔵症によって、適切な判断能力が失われている可能性が指摘されます。もし判断能力が欠如しているなら、本人の「捨てないでくれ」という訴えは、本人の真の利益に反する、病的な症状の一環かもしれません。このようなケースでは、本人の権利を守るためにあえて「強制的な介入」を行うことが、逆に「最善の利益」にかなうという逆説的なロジックが成立します。成年後見制度の活用は、まさにそのための法的な仕組みです。後見人が本人に代わって財産を管理し、居住環境を整える権限を持つことで、財産権を保護しつつも、不衛生な環境から本人を救い出すことが可能になります。しかし、ここで問題となるのは、どこまでが「本人の個性やこだわり」で、どこからが「病的な自己放任」なのかという境界線です。個人の自由を尊重しすぎて本人の死を招くことも、逆に過度な介入によって本人の尊厳を傷つけることも、どちらも正解とは言えません。迷惑防止条例を適用する際も、単にゴミを排除するだけでなく、その背後にあるセルフネグレクトの原因を探り、孤独死を防ぐためのセーフティネットを構築することが不可欠です。財産権は、人間が人間らしく生きるための権利であって、ゴミに埋もれて衰弱死するための権利ではないはずです。私たちは「権利」という言葉を、本人の命を繋ぎ止めるための架け橋として再定義する必要があります。ゴミ屋敷という不衛生の極みにおいて、住人が放棄してしまった自らの尊厳を、社会がいかに法的な裏付けを持って回復させるか。セルフネグレクトを抱える人々への対応は、権利の行使を禁じるのではなく、本人が再び権利を正しく行使できるようになるための「リハビリテーション」としての法的介入であるべきです。